ところで、araikenさんは、エントリシリーズで内田氏の『希望格差社会』『階層化=大衆社会の到来』、『ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』から引用しています。
内田氏の「階層化と教育の問題」についてのエントリ群は実はこれだけではなく、時系列順に『
オレ様化する子供たち』『
希望格差社会』『
一日教育評論家』『
階層化=大衆社会の到来』『
サンヘドリンの法理』『
ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」』の順に並びます。
これらのエントリ群では、内田氏は私たちの住む社会について、「消費社会」「リスク社会」「学歴社会」「階層社会」「大衆社会」「市民」等々、さまざまなスキームを用いて説明します。
これに対し、araikenさんは、この社会を「競争社会」としてのみ説明しようとする立場を取っているようにみえます。
二人の立ち位置の違いは、どこから来るのでしょうか。
私は、お二人は「この立ち位置を取って文章を綴ることによって目指すもの」がそれぞれ異なっているからだと考えます。
araikenさんの文章から読み取れる、araikenさんの目指すものとは何でしょうか。
まずは、一連のエントリの冒頭にあるように、内田氏の『インチキを見抜く』ことでしょう。
ただ、これだけを目的としているのでしたら、単なる荒らしや煽りとさほど変わりはありません。私がこのような長文を書くのも時間の無駄ということになります。
その先にあるaraikenさんの目指すものは、「競争」批判と、その実践としての「競争から降りることの勧め」だと思われます。
araikenさんはこう書いています。
『「競争」とは単純に言って、自分が勝ち上がるために他人を蹴落とすとことである。(…)
私たちは社会内部の序列における、より高いポジションを獲得することにモチベートされ、他人と「競争」を繰り広げる。そのような高いポジションは限られているため、誰かが勝ち組になるためには、誰かが負け組にならねばならない。ここでも誰かの勝ちは、他の誰かの負けを前提にしている。勝ち負けの判断はシステムへの貢献度(業績)によって、またその貢献への報酬(つまり経済的な格差)という一つの物差しで他人と比較することで成り立つ。資本はそのような労働者のライバル関係を利用し、労働者から最大の労働パフォーマンスを引き出し、生産性を向上させ、最大の利潤を手にしようとする。』
『そのような「競争」によって得ることのできる「夢」に価値を感じてこだわり続けている人たちは、正直いって私にはすべて後ろ向きに見える。前向きであるということは、そのような「競争」を降りてしまうことだ、と私は思う。
「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。』
ここでは「競争」社会とは『まったく一面的』な尺度ではかられる「序列」「ポジション」を目指して皆が他人と競争を繰り広げさせられている社会と目されています。そしてこの社会(システム)の目的は『資本』が『最大の利潤を手に』すること、という説明です。
『「競争」を降りること』を『前向き』と評価するaraikenさんは、内田氏の記述
『苅谷さんは97年の統計に表われたこのような「ねじれ」は1979年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である」。』
を、以下のように評価します。
『「競争」を降りることが逆に「競争」を降りた人の自己肯定につながっている………。これはとても大事なポイントだと私も思う。例えば登校拒否児が学校へ行かない自分を肯定するときのように、ここには反システム的な自己価値化への契機があると思うからだ。資本の押し付ける一元的な「競争」の価値観の外部へ視野がここから開かれるのだ。』
ここで注意しておきたいことは、内田氏や苅谷氏が『学びから降りる』と書いている文章を、araikenさんは『競争から降りる』と同義と解釈している点です。
また、araikenさんは、「降りる」ことを評価したいがためになのか、「降りる」ことを肯定する『メカニズム』については言及していません。
いや、「降りる」ことは良いことだという立場にとっては、「降りる」ことを肯定する『メカニズム』は問題になるはずが無く、『メカニズム』などと言って問題視するほうが間違っているということのようです。
では、なぜ『階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行している』のでしょうか?統計的に見られたこの差異について考えるために、ひとまずは『メカニズム』は「ある」という見方に立って、その『メカニズム』はどのようなものとして考えられるかについての内田氏の記述を見ることにします。
それは諏訪哲二氏の著書「オレ様化する子供たち」についてのエントリ
『オレ様化する子供たち』において語られています。
『「等価交換」を求める消費主体としての全能的「オレ様」の立ち上げという諏訪さんの子供解釈はたいへんに汎用性の高い知見だと私は思う。
すべての頁に私は「おおお」と赤鉛筆で線をひいてしまったが、いちばんたいせつと思われる箇所を最後にひとつだけ引用しておく。
「私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで『情報メディア』から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全にまきこまれている。子どもたちが早くから『自立』(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルに入り込み、『消費主体』としての確信をもつからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が『近代』を教えようとして『生活主体』や『労働主体』としての自立を説くまえに、すでに子どもたちは立派な『消費主体』としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校に入って、教育の『客体』にされることは、子どもたちにとっては、まったく不本意なことであろう。」(222頁)
子供がこの先幸福に生きて行くためには、「教育の客体」という立場をあえて引き受けて「生活主体」「労働主体」としての自己形成をたどることが不可欠であると考える親たちがいる。そのような親たちの子どもは「学び」に向かうだろう。一方、そのような文化資本を持たない家庭の子どもは「学び」から逃走するだろう。
諏訪さんはそう予測している。』
この文章で問題となっているのは、「学び」からの逃走です。
私は、内田氏の文章においては、「学びから降りる」と「競争から降りる」とは同じ意味を持っていないと考えます。なぜなら、「学び」からの逃走を誘い、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムとは、他ならぬ消費資本主義社会だからです。
消費資本主義の誘いに乗って「学び」から逃走する子供たちは、はたして首尾よく『「競争」から降りる』ことができるのでしょうか?
これを考える際に、内田氏の文脈における「学び」の「過大な期待を諦めさせる」という側面について整理しておきたいと思います。
『「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。』
araikenさんは、上記の内田氏の記述に対し、以下のように強く反発します。
『勝ち負けの序列内において、勝ち組のポストは限られた数しかない。とすれば、負けるものの発生は不可避である。だから負け組になる人たちの「夢」を断念させなければならない、ということになる。なぜなら、満たされなかった「夢」は恨み(ルサンチマン)に変わり、自暴自棄的な犯罪や社会不安の元になるから、というのである。
何度読んでも腹立たしく、不快な気分にさせるのはこの「過大な期待をクールダウンさせる」であるとか「『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」とか「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」とかいう断念を求める後ろ向きの言葉だ。これらの言葉をポジティブな提言として理解することができる人が多いのには正直驚いてしまう。
諦めろ! と言うってことは、何かを断念してまで守らなければならないものがあるっていうことだ。………私たちの「夢」を捨てさせてまで守らなければならないものって一体なんなのでしょうか先生? それは非情な競争社会を守るということなのですか? それともまさか、エリートとして教育システムの上に立っている先生ご自身のポジションを守りたい、なんてことはないでしょうね? 何か他の道はないのでしょうか? 結局、誰かが勝つためには誰かがあきらめて負けを受け入れなければならないんでしょうか先生?』
なぜ諦めさせるのか。それは端的に、そうしないとその子供は「収奪メカニズム」に収奪されてしまうからだ、と内田氏は『一日教育評論家』で述べています。
『「子どもの自己評価肥大によって受益している『業界』は決して子どもの自己評価を適正に下方修正する教育プログラムに同意しないであろう」というものである。
というのも、「業界」は「自分には無限の可能性がある」と信じ込む子どもとその親から「収奪」することで莫大な利益を上げているからである。
卒業後「フレンチのシェフになりたい」から料理専門学校に進学したいという相談をしてきた学生がいた。
「料理が得意なの?」と訊いたら
「別に・・・」
ということであった。
料理が得意でも特に好きでもない人間がなぜ…
と不審に思って、ふと「授業料いくら?」と訊いたら「250万円」ということであった。
なるほど。
「あなたには無限の可能性があります」というイデオロギーがこれほど瀰漫して、子どもたちの自己評価を狂わせることに何の益があるのだろう…と思っていたが、ちゃんと「益」はあったのである。
「子どもが自己の可能性を過大評価すること」から受益している業界は「あなたには無限の可能性があります」という危険なイデオロギーを瀰漫させることにこれからも加担し続けるはずである。
ほとんどの業界は「その業界で就職すること」を夢見る子どもたちから骨の髄までしゃぶり尽くすような「収奪メカニズム」を整備している。
メディア業界はその最たるものである。
メディアの周辺には「メディアで働きたい」という夢を抱いた数十万の若者が蝟集している。
この若者たちは、機会さえあれば法外な低賃金で滅私奉公的に働いてくれるばかりか、メディアが提供する商品の購入に生活費に比して過大な支出を投じることによって業界を下支えしてもいる。
「そんなことをしてもメディア業界に収奪されるだけだよ」ということをメディアは決してアナウンスしない。
するはずがない。
だから、子どもたちは嬉々として「注文の多い料理屋」のドアを叩くのである。
私たちの時代に「自己の可能性を過大評価したせいで、学校教育から脱落してゆく子どもたち」が大量生産されているのは、子ども自身の愚かさのためだけでなく、「子どもが(たいていの場合はその親も)愚かである」という事実から受益している人々が存在するからなのである。
この人々は「あなたには無限の可能性があります。さあ、レッツ・チャレンジ!」というようなアオリをこれからも続けるであろう。
「そういう甘い話を信じるな」とむかしの大人たちは苦い顔をして子どもに諭したものだが、いまどきの親たちはしばしば子どもと同じくらい夢に対して無防備だ。
子どもばかりを責めても始まらない。』
ここでは、『「あなたには無限の可能性があります」』というスローガンは『危険なイデオロギー』だと書かれています。これがなぜ危険なのか、そして『過大な期待を諦めさせる』-それは「分をわきまえさせる」という言葉でも表現できると思います-ことの意義とは何かについて、内田氏はこう書いています。
(以下http://www.tatsuru.com/diary/2004/04.01.html 1月13日から抜粋)
『私たちの周りには「分をわきまえる」ことのたいせつさを知らない人々ばかりになってしまった。
彼らは「ここではないどこか」に「自分にとって最適の仕事」が待っていると信じて転職を繰り返し、「このひとではない誰か」が「自分にとって究極のパートナー」だと信じて恋愛を繰り返し、「これではないなにか」が「いつか自分の欲望のすべてを満たす」と信じて「モノ」を買っては棄てる。
政治家も財界人もメディアもイデオローグもみんなが「自由に生き、我を張り、私情を全領域に貫徹し、つらい仕事からすぐ逃げ出すこと」を支援している。
もっと欲望を持て、もっと買え、もっと飽きろ、もっと棄てろ、もっと壊せ・・・と彼らは唱和する。
「分を知る」ことは、覇気も野心も欲望も向上心も棄てることであり、人間の尊厳を踏みにじることであり、社会関係の現状を肯定する退嬰主義に他ならないのである。
だが、この「身の程をわきまえるな」という命令は誰でもない資本主義の要請である。
そのことは誰も口を噤んで言わない。
「分をわきまえる」というのは、資本主義の暴走に対して、「ちょっと待って」と告げることであり、決して自己限定することでも、自己卑下することでもない。
それは、自分が right time right place におり、まさに自分以外の誰によっても代替されえないような責務を負って配置されている right person であるという「選び」の意識を持つことである。
社会の成員のひとりひとりがおのれの「分を知り」、自分に与えられた仕事に対して「選ばれてある」という責務の感覚を持っている社会は、たしかに大量生産、大量消費、大量廃棄という「資本主義の夢の国」にはらないだろう。
だが、そこに住む人々に、ささやかだが確実な幸福を約束してくれる。
そのことの大切さをアナウンスする人はもうどこにもいない。』
内田氏は、『「夢」』を捨てるな、というのは資本主義の要請だと言います。
『「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。』なぜなら『子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)』からです。そしてそのメッセージは「身の程をわきまえるな」という命令です。
「学び」から降りた子供たちは、こうして資本主義の要請に従って「競争」に参加し、その多くは『収奪システム』に骨の髄までしゃぶられることになってしまうでしょう。
#なかなかオルテガまで行き着けない・・・(続きます)