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2005年 07月 09日
私は今のところ、読書して理路整然と華麗に批判的議論を展開することはできない人間のような気がしている。
大体、ばかだばかだ、だめだこりゃと思うようなものを読むと、その時点で読むのをやめないとこちらにまでばかのエキスがうつってきそうな気がするし(ていうか注意していないと、本当にうつる)、ネット上で誰かのことをばかと言うには炎上を覚悟するくらいの勇気が必要だ。 ばかに対してそういうことをするのは大変に割に合わないし、単にばかと言う以外のこと、例えば理路整然とお前はこうでこうだからばかなんだと言うためには、あるていどちゃんとばかのばか文章を読まなくてはいけなくなって、そうするとばかのばかエキスがうつってきて滅入るので、そういうばか読書は必要が無い限り避けようと思っている。 そうすると勢い読書は「へーえ」というものか「す、すごい」というものしかなくなり、どちらも別に批判したりする動機が見当たらない。どこかでこれはどうなんだろうと思うところがあっても、大体が枝葉なので、そんなところをつついてどうすると言う気になる。そして実は正しさを検証するような読み方はつまらないと思っている。「たまに考える」なんてタイトルにしたわりには、自分で何か気の利いたことが考えられるほどのものでもない。 なので読書レビューをしても、長々しい引用と「す、すごい」くらいの気の利かない紹介になってしまう。こんなレビューを呼んだ皆さんは、おおかた「458masayaはばかだ」と思われるでしょうが、皆さんのうち、ちょっとでも、その本に対して「へーえ」とか「す、すごい」とか思っていただける人がいると嬉しい。長い前置きですね。 岩井克人「会社はだれのものか」 新刊と言えるくらいの本を単行本で読むのは、私には滅多に無いことなので、嬉しがってミーハー的紹介をします。 「貨幣論」も、かっこよかった。「貨幣」への目線。「当然」のところから焦点をずらしていき、別のところでクリアに結ばれた像の、その鮮やかさ。 前巻「会社はこれからどうなるのか」でも、「会社」の、「当然」とは別の鮮やかな像を見せていただいた。 今巻も会社に関する考察ですが、ずばり会社ではないところで、鮮やかな切断面。 『ライブドアの堀江貴文社長は、「おカネで買えないモノはない」と言っています。これは、100%正しい言葉です。資本主義経済においては、モノはすべておカネによって買うことができる。だが、逆の言い方をすれば、それは、おカネはモノしか買うことができないという意味でもあります。そして、幸か不幸か、この世では、モノではないものがある。それは、ヒトです。我らが人間です。出だしに書いたことをくり返しますが、近代社会とはヒトとモノをきちっと分けた社会です。ヒトはヒト、モノはモノなのです。ヒトは、モノは買えますが、ヒトは買えません。ヒトを買ったら、ドレイ禁止令に触れてしまいます。』か、かっこいい。 物議を醸した堀江氏の言葉を、まず資本主義の原則から是とし、近代の規範によって限界を示す。「愛」や「友情」や「尊敬」などは金で買えないとはよく言われたが、それらは結局「ヒト」に属するものだ。そして「ヒト」を買ってはいけないというのは近代の人権概念なのだ。 全てを「商品」とするのが資本主義であり、それに対して「ヒト」の「商品」化を禁じたのが近代の規範。 なるほど。 私たちは、目の前の現実の複雑さに翻弄されて、なかなかクリアにものを見ることができない。資本主義とは何か。法とは何か。近代とは何か。 「理念」のレベルですら、よくわかっていることなど無いと、クリアな断面を見せられて思い知る。 そして、社会科学とは何か。 『[岩井](前略)人間は、「言葉」と「法律」と「お金」を使うからサルとちがうんです。でも、言葉も法律もお金も遺伝子には入っていない。か、かっこいい。 自分が大学で、学ぶと言えるレベルでもなく学んでいたのはそういうものであったのかと、やっと今わかりました。とほほ。 # by 458masaya | 2005-07-09 00:27
2005年 06月 20日
池袋を歩く。
街宣車の上で、若者が演説している。 街宣車はいかにも街宣車であり、若者の服装もいかにも的装束だが、演説のスタイルは、従来的といって想像されるスタイルとは全く異なっている。 演説する若者は、自らの演説に、従来の様式的な特殊な発声も口調も採用しない。 「今時の普通の若者のだらだらした喋り」の声を、そのままマイクを通して通行人に届けようとしている。 その語り口は、驚くほどソフトで、脈絡がなく、とぎれとぎれで、緊張感がなく、自信なさげだ。 私の耳にはその声は、大変痛ましく聞こえる。 その声は示威行為というにはあまりにも優しく、弱弱しい。その口調から、彼は自分の意見を道行く人に聞き届けて欲しいと願っていることが知れる。 しかし、彼は「友達に話す」以外の話し方を知らない。 道行く人は、彼の友達ではない。 好意を持って耳を傾けてくれるわけでもなければ、うなづき返してくれるわけでもない。 彼の声は、この事態に、途方にくれているようにも聞こえる。 通行人は、恐ろしい。 彼らはどんなことにも無関心な顔をして通り過ぎる訓練を受けている。 ストリートミュージシャンにも、テレビの撮影クルーに逢ってさえ、何食わぬ顔でスルーする術を心得ている。 話す言葉が無視されるのは、恐ろしい。 「聞いて欲しい」と切なる願いを持っているなら、なおさらだ。 「友達に話す」ための生の声は、話者の動揺をそのまま反映してしまう。 自信なさげな発声では、百戦錬磨の通行人を立ち止まらせるのはなおできぬ。 せめて彼が、彼の声を隠す楽器のひとつも爪弾いていれば。 せめて彼が、抑揚をごまかせる、歌にのせて語っていれば。 せめて彼が、声を出すことを目的に、絶叫演説をしていれば。 せめて彼が、様式的な型をなぞることができたなら。 彼は、陳腐な型にはまったやり方では、真心が伝わらないと考えたのかもしれない。 しかし、通行人の注意を引くには、それなりの技術が必要だ。 わかって欲しいことがあるなら、つっかえつっかえ話してはならない。 なによりも、パフォーマンスの型は、通行人の無関心から話者の身を守る盾となる。 「こんなところをのんびり歩いている場合じゃないんですよ」 彼の窮地の一言だ。 通行人たる私には、この一言だけが彼から届いた。 聞いてもらえぬ哀しみが届いた。 願わくば、彼が盾を得んことを。 # by 458masaya | 2005-06-20 00:14
2005年 06月 13日
6月6日のaraikenさんへの意気阻喪エントリに対して、「通り」さんから、以下のなかなか面白いコメントをいただきました。(「ていうか」さんは「通り」さんと同じ人かはわかりませんが、コメントの流れを示すために引用させていただきます。)
Commented by ていうか at 2005-06-11 21:00 x 通りすがりの方らしい、なかなか典型的な罵倒です。せめて具体例を示すだけのサービス精神が欲しかったと悔やまれてなりません。 このような言葉にエントリを上げて云々するのは、大変危険です。100%不毛ロードを全力疾走と申し上げても良い。いわばこのエントリ自体が不毛です。不毛な文章を書くことは恐ろしく人を消耗させると、やってみて良くわかったのにまたやるのか。いやだなあ。しかもこれから書くことも大変くだらない。くだらないことを覚悟してくださいよ。いいですか。 冒頭の「なかなか面白い」の評は、もちろん太字で示された部分に向けられています。そのほかにも「あなたたち」といきなり複数形を使って私を呼びつける面白さはありますが、今回不毛な考察を加えるのは、これらのコメントが書かれるにいたった文脈における太字部分の意義についてです。 araikenさんは、「通り」さんご指摘の「その3」も含む長い長いエントリシリーズで、繰り返し繰り返し『「競争」のベースになっている業績主義イデオロギーの一面的な価値観を相対化し、無力化する』ことを主張されています。学校教育については、『「学び」の現場は試験によって子供を評価する(均質的な)「競争」の現場だ』とみなしている、と私は読みました。 そして「通り」さんは、そのaraikenさんのエントリを読め、自分たち(それにしてもこの複数形は不思議だ)の読解力を疑えと言った最後に「国語の点」を持ち出します。しかも、素直に読むと、「あなたたちは読解力がない→国語の点数が低かっただろう?」と、「読解力」と学校教育における国語という科目の点数を関連付けようとしています。 ここから推理できる、「通り」さんの意図は何でしょうか。 ケース1:「低かったでしょ?」という促しのまま、私が「国語の点数は、低かった」と答えるのを期待している場合、「業績主義的イデオロギーの一面的な価値観を相対化」した目であっても、試験による子供の評価のうち、少なくとも「国語の点」と「読解力の多寡」の相関についてはこの妥当性を認める。 ケース2:促しにもかかわらず、私が「国語の点数は、高かった」と答えるのを期待している場合、私が「読解力」の無い人間であるにもかかわらず「国語の点」は高かったことから、「国語の点」と「読解力の多寡」は相関しないことを示そうとしている。引っ掛け問題ですね。 ケース3:どちらにせよ、私が返答することを期待している場合、正負どちらであっても、煽りに乗って「国語の点」を私が答えてしまうくらい、「学校の成績」に私がこだわっている=「業績主義的価値観の内部にいる」と主張しようとしている。 ケース4:どちらにせよ、私が返答しないことを期待している場合、「国語の点」を答えようとしないくらい、「学校の成績」に私がこだわっている=「業績主義的価値観の内部にいる」と主張しようとしている。 ケース5:返答にかかわらず、このようなコメントを公開することの効果を狙っている場合 案5-1:「業績主義的イデオロギーの一面的な価値観を相対化」することを主張する文章を読めと言いつつ、「国語の点」と「読解力」を結びつけることによって、「なかなか業績主義的価値観からは抜け出せないよねぇ・・・」という、「とほほ感」を醸し出そうとしている。 案5-2:「国語の点」と「読解力」を結び付けつつ、不躾なコメントを寄越すキャラをあえて演じることで、「国語の点」と「読解力」を結びつけるような「一面的な価値観内部」にいる輩は人間的にろくなものではないということをアピールしようとしている。 ケース6:araikenさんの主張が私の読み取りと異なっている場合 案6-1:「国語の成績」と「読解力」は相関するとaraikenさんは主張していると、「通り」さんは私に指摘しようとしている。 案6-2:「学校の成績」で「人の能力を判断しようとする」態度は正当なものであるとaraikenさんは主張していると、「通り」さんは私に指摘しようとしている。 ほら。 全くくだらないエントリでしたね。 # by 458masaya | 2005-06-13 21:24
2005年 06月 06日
「センセー、やっぱり違うと思います!その1」、「その2」、「その3」を拝読いたしました。
何というか、申し訳ありません。 私の文章を読まれて、araikenさんに再度「『センセーそれはあんまりじゃございませんか』と同じことを繰り返して説明する」手間をかけさせてしまうことは、私の意図するところではありませんでした。 とはいえ責は、私にあるでしょう。ある文章で「その人の意図しているところ」を読み誤る人間は、議論の相手がこの先言うことについてもまた、「その人の意図しているところ」を読み誤るだろうと類推していながら、エントリを投げてしまったのは私なのですから。 また、私のエントリでは、やはりいくつか意図を読み誤りやすい表現をしてしまったことも事実です。 最たるところは以下の記述でしょう。 『私は、内田氏の問題とするところとaraikenさんの問題とするところは、一致してはいないものの、それほど離れてはいないと思っています。』 あいまいな言い方です。「ほぼ一緒」のようにも取れるし、「全然関係が無くはない」程度に離れているようにも取れます。 このように書いたのは、araikenさんに、内田氏のエントリを『競争社会を(どれくらい、どのように)批判し(え)ているか』という視点にこだわりすぎずに、丁寧に読んでいただきたかったからです。だからこそ、『お二人の問題の捉え方、考慮する変数、論の進め方がどのように違い、それらがお二人の主張の違いにどのようにかかわっているか』書こうとした(が疲れた。。。申し訳ない)とまで書いたのです。ここまで書けば、「内田樹は競争社会を否定しているか否か」もしくは「内田樹の発言は競争社会を否定する「働き」をするか否か」を検証することだけを目的として内田氏の文章を読むことを避けていただけるのではないかと期待したのです。 なぜなら、araikenさんが内田氏のエントリシリーズを批判して主張する「競争社会批判」の記述に対し、批判されている当のエントリシリーズは、araikenさんが読み取っていない角度から、重要な示唆を与えるものであるように見えたからです。もっと言ってしまえば、araikenさんが問題にしているのとは違うレベル、私から見ればより根本的なレベルで、araikenさんの「競争社会批判」に異議を唱えているように見えたからです。 だからこそ、私はaraikenさんの「読み」に興味を持ち、失礼なことに「誤読」と指摘し、おせっかいなことに再読を勧めたのです。 残念ながら、私の言葉は、さらにaraikenさんに「内田樹の発言は競争社会を否定する「働き」をするか否か」の検証だけをさせる結果に終わってしまいました。なので今回は、内田氏とaraikenさんの論は、何が違うように私には見えるかをお話ししたいと思います。印象批評に傾いてしまいますので、以下の文は、くれぐれも「私の読み」であることをお忘れなきようお願いします。 実は私は、内田氏の考えは「競争の社会を批判するものである」とは思っていません。より正確にいえば、「araikenさんのように競争の社会を批判するものである」とは思っていません。 araikenさんの競争社会批判の主張について見てみます。 araikenさんは、「センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4」で、こう述べています。(太字は特に私が注目したところです。) 「 「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。 まず私が感じたのは、「極端な二項対立」への性向です。システムの中か外か(競争を降りた「瞬間」にシステムの外に到達します)。まったく一面的な価値観による比較か、他者との比較を一切しないか。システムか、ひとりか。このaraikenさんの2項対立を徹底しようとする性向が、内田氏批判の端々にまで現れています。 また、私には、この「競争を降りた者たち」の生き方は大変過酷なものに見えました。システムから降りるゆえに、経済的にも精神的にも戦いの連続。運が悪ければ死ぬだけ、ということは「運のよさ」にしか担保されない生存。カオスの中で、目的地もなく方向もばらばらであるがゆえに、学ぶべき知識も、頼るべき先人も、助け合う同輩も、屍を超えていく後続すらいない、危険な「冒険」。内面はどうあれ客観的に見れば、大変惨めで孤独な姿です。これを「陽気な戯れ」として晴れやかなものと解釈するためには、常に「内面からの充実」を必要とします。 何というか、この生活は、自己の活力は無尽蔵であると無条件に信じることができる人にしかできないなあと感じました。戦い続ける活力の無い人、無くなった人はその場で孤独に死んでゆき、埋葬すらされないでしょう。 araikenさんの論を突き詰めていくと、人間には「競争社会の中で資本の生産性の増大に奉仕する」道か、「システムの外で戦い続ける」道しか無いように見えます。どちらも大変ハードな道です。その他に道はないのでしょうか? しかしaraikenさんは、システムの外、真のカオスに生きているわけではありません。araikenさんは、日本語を話し、Webにつながり、仕事をして賃金をもらい、貨幣で物を買って、生きています。araikenさんは主観的に「降りて」いるにもかかわらず、実は日本からも、Webに代表されるようなテクノロジーからも、労働からも、資本主義からも降りてはいないし、排除されてもいないのです。 araikenさんの「外部」については、きはむ。さんが色々と述べておられますので、安易に「外部」という言葉を振り回すのは、しばしば大変単純な人間に見られる危険がありますとだけ言っておきます。 araikenさんも私も内田氏も現に生きている、この場所は「社会」です。そして、人が幸せに生きていける「社会」は、極端と極端の「あいだ」、対立する二項の「あいだ」にしかない、内田氏はそのように言っていると、私は思います。さすがにもう徒労感に襲われるのは苦しいので、ご説明はいたしません。 「自分と他者との比較を一切しない」人間に対しても、「たった一つの価値基準で自分と他者とを比較する」人間に対しても、内田氏は疑義を提出していると、私は思います。内田氏は、この二項の間、「できるだけ多様な、たくさんの尺度で自分と他者、自分と理想との距離をはかる」ことが人への敬意を基礎付け、人を成長させ、人を幸せにすると言っていると私は思います。さすがにもう(以下略 ちなみに、内田氏の文章中の「あきらめる」とか「社会的役割」とか「仕事」等々の言葉についてaraikenさんのように考えるのは、それらの言葉の意味についてaraikenさんと同じ前提を共有し、araikenさんのように文脈のニュアンスを取り落とし、araikenさんと同じような極端な二項対立への性向によって、「現行システムの完全否定でなければ完全肯定のはず」という推測でものを考える人たちだけでしょう。そのような人たちにとってのみ、内田氏の言葉はaraikenさんのいうような「意味合いで理解され」ることは否定しません。 どんどん投げ遣りな感じになってしまい、申し訳ないです。 どのように書いてもaraikenさんには届かないだろうと思うと、丁寧に書こうとする意欲が恐ろしく萎えるのを感じます。 すみません。 # by 458masaya | 2005-06-06 01:31
2005年 05月 29日
真性引き篭もり氏の「エントリーを読むのか、それともブログを読むのか。」に感動してしまったのは、ここのところブログの文章の読まれ方というか、論じられ方についてぐるぐるしているせいもあるだろう。
『エントリーだけじゃなくて、ブログ丸ごと読むことにした。 「ガ島通信」というところや、最近そこの主をめぐって巻き起こった議論について何か言いたいことがあるわけではない。 「ガ島通信」というブログについて論じるためには、「ガ島通信」というブログ丸ごとを読まなければならない。 これはとても正しい前提だ。しかし正しさの極北だ。 『エントリーを読む人はいても、ブログを読む人は滅多といない。 たかが論じるための前提をクリアするために、この量をとにかく読んだ。この「正しさ」の突き詰め方に感動した。 高橋源一郎氏は著書「文学なんかこわくない」で「小説を論じるためには、何枚の原稿が必要なのか?」という問題にこう答えている。 『小説を論じるためには、元の小説の少なくとも二倍、概ね三倍以上の原稿量を必要とする。 全てを読み、全てを精査し、返答を返す。これが小説の評論の唯一の「正しい」あり方だと高橋氏は言う。 一編の小説は、明確なはじめがあり、終わりがある。ひとつの小説の「全て」は明確に定義できる。 ではひとつのブログのはじめや終わりはどこにあるのか。どこまで読めばブログの「全て」と言えるのか。あるブログについて何かを言いたい場合には、どこまで読むべきなのか。 真性引き篭もり氏は「全て」と答える。「数百のエントリーとそれに貼られたリンクと無数のコメント、さらにエントリーの数倍の量のトラックバック」を全て。 そんな馬鹿な? 馬鹿ではないと私は思う。 これが正しい前提なのだ。そして正しさの極北だ。 ブログ丸ごとを読まず、あるエントリやエントリの断片を読んで、または流し読みしてそれを論じようとするときには、この「正しさの極北」との距離に疚しさを感じながら書くべきだと私は思う。自分が行っている評論が「詐欺同然」であることに、いくばくかの痛みを感じながら書くべきだと私は思う。 もちろんこんなことは理想論だ。 ウェブ上の文章を読む人間は存在しない。 表面上の意味だけでも理解する読者がいれば御の字だ。 いまさらこんなナイーブなことを言ってもはじまらない。 しかし。しかしだ。 合理的ではないとわかっていながら、まったく正統性の無い立場から合理的ではないことをして、当初から合理的に予測されていた通りの結果に終わったことに徒労感を感じるというのは、どこを取ってもまったく合理的ではない。いっそ自分の不合理さ加減にすがすがしさすら覚える。 ははは。はは。 # by 458masaya | 2005-05-29 04:39
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